基準の違いと怒りの振り下ろし先
夕方、フジでやっていたモンゴル遊牧民族のドキュメンタリー。満足に学校に行けず、半年に1回やってくる「巡回学校」。8歳の幼い少女が「字が書けるようになりたい。本を読めるようになりたい。」純粋な目で訴える。
日本では当たり前のことがそこでは「当たり前ではない」。要は基準の違い。何を当たり前とするか。何を不遇とするか。何が幸せで、何が不幸なのか。
鬱になったのは必然なのか。それともそうではないのか。受け止め切れなかった私が悪いのか。それともそうではないのか。多分、基準は会社と私で違う。
4月に復帰宣言した。でも、怒りの振り下ろし先は未だにみつからない。胸の中にうずまく怒り。私をこんな状態にした主任は今日ものうのうと仕事をしているのだろう。人生を壊されて、1年間をつぶしてくれたあいつに対する怒りをどこにぶつければいいんだろう。それとも。
怒りを持つ事自体が間違いなのか?